「どうした修也。俺の哀れな姿を最後に見る為にわざわざここへやって来たのか?」庭の池を前に翔は憎しみを込めた目で修也を見る。以前まではこの目で見られると、どうしようもない引け目を感じていたが、今の修也はもう違う。何故なら朱莉という愛する女性の、身も心も手に入れることが出来たからだ。「いや、違うよ。会長に会いに来たんだよ」堂々と翔の目を見据える修也。「会長に? 次期新社長として挨拶に来たってわけか?」嫌味を込めた言い方で翔は修也を睨む。「そうじゃない。朱莉さんと結婚させて下さいってお願いに来たんだ」「な……何だって!? お前……いつの間に!」翔は修也の胸倉を掴んだが、修也はその手を払いのけた。「!」翔は修也の初めて見せる強気な態度に驚いた。「翔……僕はね、ずっと前から朱莉さんが好きだった。高校時代からね。途中で朱莉さんがいなくなってしまった時は必死で彼女の行方を探したけど……僕には見つけることが出来なかった」「何? お前が朱莉さんと高校時代からの知り合い……? 一体どういうことだ?」翔には訳が分からなかった。そんな翔を見て修也は溜息をついた。「やっぱり翔は何も気が付いていなかったんだね……。高校時代、翔が僕に自分の代わりに個人レッスンを付けてくれと言った相手こそ朱莉さんだったんだよ」「な、何だって!? 朱莉さんはそれを知っていたのか!?」「当然じゃないか……。朱莉さんの初恋の相手は……翔、君だ……って言いたいところだけど、君に変装した僕だったんだよ。もっとも当時の朱莉さんは僕が翔のフリをしていたなんて知りもしなかったけどね」「そ、そんな……まさか……」翔はよろめいた。(まさか……朱莉さんが最初から俺のことを知っていたなんて……それなのに俺は朱莉さんに酷いことばかりして傷つけてしまった……。馬鹿だな。これじゃ朱莉さんに捨てられて当然じゃないか……)そこで、翔はあることに気が付いた。「待てよ……修也。確か女子高生は重度の金属アレルギーで病院に運ばれたと言ってなかったか? あれは朱莉さんのことだったのか!?」「そうだよ。だから傷ついただろうね。翔から金属製の腕時計をプレゼントされた時は」「くそ!」翔は近くに生えていた松の木を思い切り殴りつけた。「ハハハ……馬鹿だな……俺は」力なく笑うと修也を見た。「修也……俺はお前が鳴
――翌朝6時スーツを着込んだ修也はまだベッドの中で眠っている朱莉をじっと見つめていたが……。身をかがめ、眠っている朱莉にキスをした。「朱莉さん、行ってきます」そして静かにマンションから出て行くと駐車場へ向かい車に乗り込むと、修也はある場所へ向けて車を走らせた――**** カーテンの隙間から眩しい太陽の光が差し込み、朱莉の顔を照らした。「う……ん……」朱莉はゆっくり目を開けて部屋の中をキョロキョロ見渡した。「え……? 修也さん?」朱莉はベッドから起き上がったものの、修也の姿は何所にもいない。代わりにベッドサイドにメモが置かれていた。『おはよう、朱莉さん。これから仕事に行く前に大事な話があるので会長の所へ行ってきます。目が覚めた時傍にいなくてごめんね。 愛してるよ』「修也さん……」朱莉は頬を染めてメモを握りしめるのだった――**** 港区南麻布の鳴海家の邸宅――「どうした修也。まだ7時半だと言うのに、こんな朝早くから訪ねてくるとは」明るい日差しの差す書斎で窓の外の庭の景色を眺めている猛。庭では翔が蓮と一緒に池の鯉に餌を上げている。「はい、僕と朱莉さんのことです」修也は背中を向けている猛に語る。「ほう……朱莉さんとのことか?」猛が振り返った。「はい。僕は朱莉さんのことを愛しています。翔との離婚直後で不謹慎かもしれませんが……彼女と結婚したいと思っています」さぞかし驚かれるだろう……修也はそう思っていたのだが、猛は平静を装っている。「あの……会長……?」が「それで……いつだ?」「え?」「いつ2人は式を挙げるんだ? いや、式は後でも構わないか。先に入籍だけでも済ますか? 蓮のこともあるしな」猛は意味深な笑みを浮かべている。「え……? か、会長……? いいんですか?」修也は戸惑いながら尋ねた。「いいも何も無いだろう? 朱莉さんはとても気立ての良い素晴らしい女性だ。蓮のこともあんなにいい子に育ててくれた。はっきり言って翔には勿体ない女性だと初めて会った時から思っていたんだ。修也、お前とだったら、きっとお似合いだっただろうなって」猛の言葉に修也は驚いた。「ま、まさか……会長はこうなることを全て見越して僕を呼び寄せたのですか?」「さあ……どうかな?」猛は修也を振り返ると、書斎のデスクへと向かった。そしておもむろに
「私が金属アレルギーだってこと、覚えていたらプレゼントに純金製の腕時計なんかくれませんよね?」朱莉は寂し気に笑う。「朱莉さん……」(どうしよう、何と言って慰めてあげればいいんだろう…?)修也はただじっと朱莉を見つめるしかできなかった。しかし、朱莉は意外なことを口にした。「あ、あの……私、初めて各務さんにお会いした時……何故か懐かしい感じがしたんです」「え?」「翔さんに似ているからそう思っていたのかなって思ったりもしたのですけど……。でも、似てたんです……」「似てた?」「はい。あの、高校時代の翔さん……全体練習の時に顔を出していた時と、私の為に個人レッスンをしてくれて金属アレルギーで倒れた私を救ってくれた翔さんは……まるきり別人のように感じてしまって……」「朱莉さん……」「私が翔さんを好きになったきっかけは、私の命を救ってくれたからなんです。でも今になって思うんですけど、あの時の翔さんは……本当は別人だったのじゃないかなって……え!?」気づけば朱莉は修也に強く抱きしめられていた。修也は朱莉の髪に自分の顔をうずめると言った。「朱莉さん……ごめん。僕と翔は……朱莉さんを騙していたんだ……」「え……? 騙していた……?」(ま、まさか……やっぱり……?)修也に強く抱きしめられたまま、いつしか朱莉の頬は赤く染まり……心臓はドキドキと早鐘を打っていた。「僕は……あの頃、翔の命令で時々入れ替わっていたんだ。あの時も……」修也は朱莉を抱きしめたまま話を続ける。「音楽室で初めて朱莉さんを見た時、何て可愛い人なんだって思ったよ。だから僕は心の中で翔に感謝した。だって翔の提案が無ければ僕は違う学校の生徒だったから……こんな事でもなければ朱莉さんと知り合えなかったんだし。朱莉さんが心配だったからお見舞いにも行ったし、この先も2人で練習できるだろうと思ったからマウスピースもプレゼントしたんだ。なのに朱莉さんは学校をやめてしまった。あの時……僕がどれほど悲嘆にくれたか……」「か、各務さん……」朱莉は耳を疑った。ずっと……好きだった相手は本当は修也だったのだ。「好きだよ、朱莉さん」「!」それは突然の修也からの告白だった。「翔に朱莉さんを紹介された時、すぐに気が付いたよ。そして酷く落ち込んだ。いくら偽装結婚だからと言って、朱莉さんは翔と結婚してしま
「どうぞ、上がってください」真っ暗なマンションの部屋の玄関の電気をつけると、朱莉は修也に声をかけた。「お邪魔します」修也が部屋へ上がると、朱莉はリビングの部屋の電気をつけた。「今、お茶を入れますので各務さんはリビングで待っていて下さい」「ありがとうございます、朱莉さん」修也は笑みを浮かべ、リビングのソファに座った。リビングに置かれたケージの中にはネイビーがいて、おもちゃで遊んでいる。「……可愛いな……」修也は呟くと、改めて部屋の中を見渡した。リビングは蓮の持ち物で溢れかえっていた。テレビの脇に置かれているのは修也と一緒に買いに行った蓮の本棚で、明日香が描いた絵本が丁寧に並べられている。出窓には蓮が幼稚園で作ったと思われる紙粘土の作品や、綺麗に額縁に収められてクレヨンで描いた蓮のイラストが壁のコルクボードのフックにかけられ、飾られている。それらを見て修也は思った。朱莉にとって蓮は大事な存在で、朱莉の生活の中心は全て蓮に向けられているかを感じた。(こんなに愛情を持って4年間大切に育ててきた蓮君を手放さなくてはならないなんて……今朱莉さんは、どんなに辛い思いをしているのだろう…)朱莉と蓮が引き離される……そのことを考えるだけで修也は朱莉が気の毒で哀れでならなかった。その時。「お待たせいたしました。各務さん」その声に振り返ると朱莉がお盆にお茶が入った湯呑を持って現れた。「コーヒーかお茶にするか……迷ったんですけど、たまにはお茶にしてみました」そして修也の目の前にコトンと置く。「ありがとう、朱莉さん」修也は笑顔を向けるとお茶を一口飲んだ。それは抹茶の含まれた玄米茶だった。「うん。とても美味しいですよ」「良かったです。お口にあって」そして朱莉は修也の左隣のソファに座った。少しの間、2人の間に沈黙が降りたが……やがて朱莉が口を開いた。「各務さん……先ほどの話の続きですけど……」「話……? ああ、翔の話ですよね。どうぞ」修也の心は穏やかではなかった。本当は今すぐにでも告白したい。あの時、朱莉の練習に付き合ったのは翔ではなくて自分だと。救急車に乗って付き添い、お見舞いに行ったのも自分だと告げたかった。だが、朱莉は翔と修也の入れ替わりの事実を知らない。今そんな話をしても朱莉を混乱させてしまうだけだろう……そう思うと修也は真実を告げる
「翔さん? どうかしましたか?」翔の様子がおかしいことに気づいた朱莉は首を傾げた。「いや、何でもない。元気でね……。さよなら、朱莉さん。6年間、ありがとう」「こちらこそ、ありがとうございました」最後に朱莉はもう一度深々と翔に頭を下げると猛を見た。「それでは蓮ちゃんをよろしくお願いします」「ああ。幼稚園はこちらから連れて行くよ。実はな……もう蓮の幼稚園の制服を手配してあるんだ」猛はいたずらっ子のように笑みを浮かべた―― **** 鳴海家の帰りの車内――朱莉を助手席に乗せた修也は夜の町を走らせていた。「すみません、各務さん。お疲れのところ車で送っていただいて」「いえ、いいんですよ。これくらい気にしないで下さい」修也はカーステレオをつけると、ある音楽が流れ始めた。その曲は『美しき青きドナウ』だった。「「あ……」」この時、何故か朱莉と修也が同時に声を上げた。何故ならその曲は高校時代、朱莉と当時翔のふりをしていた修也が一緒にホルンの練習をした曲だったからである。「あの、この曲がどうかしたのですか?」朱莉は修也に尋ねた。「いえ、ただ……このクラシック曲は好きな曲だったからですよ」修也は曖昧に笑った。「そうですか……」朱莉はポツリと言ったが、やがて意を決したかのように口を開いた。「各務さん……私の高校時代の話、聞いてもらえますか……?」「いいですよ」修也は緊張した面持ちでハンドルを握り締めながら返事をした。「私と翔さんの出会いは高校生の時だったんです。入学式の時吹奏楽部の演奏を見て、憧れて入部したんです。そして私はホルンを担当することになったのですけど……少しもうまく演奏出来なくて……。それで当時私が憧れていた翔さんが個人レッスンをしてくれることになったんです」「そう……なんだ」(朱莉さんは一体何を言うつもりなんだろう……?)「それで、私……練習中に金属アレルギーを起こして意識を失ってしまったみたいなんです。そしたら翔さんが救急車を呼んでくれて……ずっと付き添ってくれたんです。病院にもお見舞いに来てくれました」その時、車が止まった。朱莉の住むマンションへ着いたのだ。修也は溜息をついた。本当は話の続きを聞きたかったのだが、もう朱莉の住むマンションへ着いてしまったのだからここで断念するしかなかった。「朱莉さん。マンショ
その日の夜――応接室に全員が揃っていた。朱莉の向かい側の席には翔が座り、その様子を左右のソファに座って見届けているのは修也、そして蓮を膝に乗せた猛である。「朱莉さん、ここに名前を記入してくれ」翔が力なく朱莉に差し出したのは離婚届けだった。すでに翔の名前が記載されている。「翔さん……」ガラステーブルの前に置かれた離婚届と翔の顔を朱莉は交互に見ると、翔が言った。「6年間、本当に色々とありがとう。蓮のことも……」そして翔は頭を下げた。(くそ……! 見張られていなければ自分の気持ちを朱莉さんに告げることが出来たのに……俺にはそれすら許されないってことなのか……)翔は自分の置かれた立場が惨めで、今すぐここを立ち去りたい気持ちと、朱莉に愛を告げ、その手を取って今すぐアメリカに連れ帰りたい気持ちで揺れ動いていた。が……そのどちらも翔には許されないのだ。黙って離婚届に自分の名前を記入して朱莉との6年間の全てを、今この場で清算させる。それが猛からの命令だったからだ。これに歯向かえば翔は鳴海グループから追い出されてしまう。だが翔は一縷の望みを持っていた。ひょっとすると朱莉は自分との離婚を拒否してくれるのではないか? 少なくとも偽装結婚を始めた頃は朱莉は自分に気が合ったのではないかと……そのほんのわずかな希望に縋りたかった。だが目の前で淡々と離婚届にサインをする朱莉の姿を見て、自分の希望が打ち砕かれたことを改めて知ったのだ。(考えてみれば当然だよな……思えば結婚当時は朱莉さんに対して酷い態度ばかり取っていた。離婚することに朱莉さんが抵抗しないのは当たり前だ。俺は今更ながら何て愚かな人間だったのだろう。結婚当初から優しく接していればこんな惨めな結果にはならなかったのに……)偽装結婚することが出来たばかりのあの時、翔は自分の望むもの全てを手に入れたかの様気持ちになっていた。しかし、それは全くの逆だった。偽装結婚などをしたばかりに、翔は全てを失ってしまったのだ。明日香を、朱莉を……蓮を。そして時期社長の座を……。 朱莉が離婚届に記入を終えると猛は翔に告げた。「明日、お前は朝のうちにアメリカへ戻れ。私が代わりに2人の離婚届を役所に提出しておこう」猛は朱莉が記入を終えた離婚届の書類を手に取った。「え……? もうアメリカへ戻るのですか?」朱莉は翔を見